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【経験談】「待望の妊娠と進行性乳がんの告知。怒涛の日々から伝えたいことは「あきらめない」ピアリング編集部ゆう

みなさんこんにちは!ピアリング編集部のゆうです。今回は私の経験談をお話します。お時間のある方はしばしおつきあいください!それではどうぞ。

はじまりは2013年のある夏の日

わたしが右胸に異変を感じたのは、2013年のある夏の日。妊娠が判明したばかりで、二日酔いより強力なつわりと闘っている最中だった。

なんか、右胸にコリっとするものがある…、と謎のしこりを発見。
胸は妊娠によって乳腺が発達し、パンパンに張っている。しこりはその乳腺の変化によるものだろうと思った。
それよりも、数ヶ月前に流産を経験しており、今度こそお腹の子を大切に育てたい!という想いで頭の中がいっぱいになっていた。

しかし、次第にしこりは大きくなっていき、痛みを感じるほどになった。その後に受けた健康診断で案の定、要精密検査となり、近くの総合病院で検査をした。
針生検を受けたが、腫瘍の感触からして、おそらくがんの確率は10%以下だろうというのが医師の診立てだった。

だが、数日後、検査結果を聞きに行く予定の日よりも早く、検査結果をご家族と一緒に聞きに来てくださいと、病院から電話があった。
夫と母に付き添ってもらい、検査結果を聞きに病院へ。その時もまだ、腫瘍は良性だと思っていた。

しかしそこで思いもよらぬ医師の言葉を聞くことに。

「残念ながら、これがんです。」

さらっと言われた。とっさに

「あ、そうっすか…」

しか言えずにいた私に、さらに衝撃的な言葉の連打が。

「妊娠中は抗がん剤治療ができません。しかも進行の早いタイプのがんなので、すぐ転移するでしょう。
転移を防ぐために出産をしてから両方の乳房を切除して抗がん剤治療を開始することになります。
しかしその場合がんが他の臓器に転移している確率が高く、お子さんの成長が見られないでしょう。
妊娠の継続をあきらめて、治療をすることをおすすめします。ですが、その後治療が終わってお子さんを望まれる場合、年齢的にもお子さんを持てない可能性があります。」

その時の心境は、泣くでもパニックでもなく

「がんだけに、ガーンって言いたいけど、深刻な時にふざけてるって思われる…」

とかそんなことしか思い浮かばなかった。で、当然家族は、しーん…。

しばらくして、母が絞り出すように

「娘自身を、何とか助けて欲しいんですけど…」

と言った。

私はとっさに自分の命よりも、子どもの命を優先したいと思った。
もうしばらくすれば、中絶ができない週数になってしまう。何も考えられず、頭が真っ白、というのはこういうことなのか、と身をもって感じた。

私の右胸には、大小2つのがんができていた。身内に乳がん罹患者は1人もいなかったし、自分ががんになるなんて、まったくの想定外だった。
医師は、来週までにどうするか、治療の方針を決めて来てほしい、と言った。
妊娠中に治療することは、本当に不可能なのだろうか。その医師が、一緒に治療の道を探してくれないことに不信感を抱いた。

しかし、もうくよくよ悩んでいる時間はない。がんに関する書籍を読んだり、医療関連に従事している身内や、親族に医師がいる友人たちなどに片っ端から電話をかけたりメールをしたりして情報を求めた。が、その甲斐むなしく治療法は見つからず…。

インターネットで、治療を終えた方の闘病ブログに絞って検索すると、なんと妊娠中にがんの治療をした方の闘病ブログがヒット!わずかに希望の光が見えた!
そのブログに出てきた病院のセカンドオピニオンをすぐに受診した。
聡明で優しそうな、女性の先生が登場。まず、がんがどうとかの話をする前に

「妊娠なさってるのよね。おめでとうございます!」

という力強い言葉をかけてくれた。先生が神様みたいに見えた。 「この先生が助けてくださる!」
と感涙。すぐに転院を決めた。それにしても、あの最初の病院、何だったんだよ…と、怒りの矛先がそこへ向かった。

その後、安定期を待って、抗がん剤治療を開始。主治医の先生は自分と同年代で、ママとしては先輩でもあった。先生は、同じ若年性の乳がんの治療中の仲間を紹介してくれたり、診察室で私のバカ話にも付き合ってくれたりした。
私の不安は次第に軽くなっていった。
そして、抗がん剤が功を奏し、合わせて5㎝ほどになっていた2つのがんが、診察のたびに小さくなり1㎜以下にまで縮小した。
同時に胎児の発育も順調。院内会議の結果、帝王切開とがん切除の合同手術で出産する予定になったと医師から告げられた。
またここで不安が襲う。出産の恐怖。そして、抗がん剤をやっているのである。お腹の子が自分と同じ、眉毛ナシのハゲで産まれてくることも想像し、いや~な悪夢も何度も見た。
それに、出産と同時にがん手術なんて、聞いたことがない。人のブログを見てもそんな手術の例はなかった。

超が100個くらいつくほど不安だった。しかしただ毎日不安になっていたって、現状がどうにかなるわけではない。ならば、今を楽しもうと考えを切り替えて、不安を打ち消すかのように遊んだ。

映画を見に行ったり、同じ若年性乳がんの患者会の仲間とご飯を食べに行ったりと、副作用に苦戦しながらも、ここぞとばかりにアクティブに過ごし、時々不安になり夜に泣いたり、夫と喧嘩になったりもしたが、わたしはマタニティライフ@抗がん剤を楽しんでいた。

ウィッグをとっかえひっかえかぶって、つけまつ毛つけて。 さらに、産休までシフトを減らして仕事もしていた。あまりにも元気ながん患者妊婦に、周囲も驚いていた。

今思うと、わたしはアクティブに過ごすことによって「今この瞬間、自分は生きている、存在している」という実感が欲しかったのかもしれない。つまりは、とてつもない不安を前にして、それと真っ向から対峙することが恐ろしすぎたのだ。

泣いても喚いても日に日に、超(×100)不安の手術の日は近づく。
そうなったらあとは、まな板の上の鯉、ではなく手術台の上のスキンヘッド妊婦。
もう開き直るしかない。深いことは考えず、ボコボコ動く胎動の元気のよさに意識を傾けていた。

手術の当日。家族に見送られ、オペ室に入った。 まず、部分麻酔で帝王切開。主治医の先生と研修医らしき男性が何やら話しながら執刀している。
ずいぶんラフな感じの会話が聞こえてくる。だ、大丈夫だろうか…。

執刀中の医師に身をゆだねてぼんやりしていると、突然、オギャーという泣き声が響いた。
テレビなどでよくある、あの声。

「おめでとうございます!男の子ですよー!」

じ〜ん!

感動。枕元に置いてあっためがねを看護師さんがかけさせてくれた。一瞬のご対面。元気な赤ちゃんだ。しかし、そんな感動に浸っている暇もなく、すぐに全身麻酔が投与され、次第に意識が遠のいていった。
部分切除手術が始まった。

次に気が付いたら、たくさんの管につながれて、酸素マスクを着け、身動きが取れず、ベッドの上にいた。
ザ・重病人スタイル。夫が「よく頑張ったね」といいながら、ハゲの頭を撫でていた。

次第に痛み止めが切れてきた。右胸は母乳でパンパンになっているのに、部分的に切除しているのである。
痛いという一言では片づけられないくらいの辛さ。まさに、生き地獄。
痛みが強すぎて、痛み止めも効かない。

しかし、胸に繋いだドレーンの管は、ミルクの白、血の赤で、紅白に彩られおめでたい感じすらする。もう、地獄で盆と正月を一度に迎えたような、例えようがない心境である。
そんな地獄を文字通り胸に抱えながら、看護師さんが連れて来てくれた赤ん坊を抱いた(健側の腕だけで)。

ゆっくりと対面した。わたしの不安とは裏腹に、赤ん坊は、スキンヘッドの私よりも髪がふさふさで、健やかな顔で眠っていた。ここまで本当に苦労して、2人とも無事に生きてこられたことを思うと涙が出た。

執刀医の先生が「この子はお母さんが苦労したことを知っているから、きっと手がかからないよ。」と言ってくれた。その言葉は本当で、夜泣きもせず、よく寝て、ミルクもよく飲み、誰に抱っこされてもよく笑う、とてもいい子だった。自分はまつ毛が抜け落ちているのに、子どもはまつ毛がとても長かった。そのせいか今でもよく女の子に間違われる。

その後は、新生児の育児であたふたしながら、さらにヘビーな抗がん剤、放射線治療へと続く。
その話は長くなるので、また次の機会に。 

がんの治療を終えたこと。

それは、わたしにとって、大切な宝物となった。日々平穏な生活を営めることのありがたさに、改めて気づかせてくれるのと同時に、家族と人生を歩むことの幸せなど、たくさんのかけがえのないものを与えてくれた。

と、綺麗に終わりたいところだが、もともとネガティブ思考のわたしの不安はまだまだ尽きない。

治療を終えて自信がつきパワーアップした私は、日々成長している我が子のやんちゃさに腹を立てて毎日大声で叱り、さらに自分のダメさ加減に泣きたくなり、時々落ち込み、そして日々起こるいろいろなことに感謝しながら、家事に仕事に奔走する日々である。

しかし、こういう何でもないようなことが幸せなのかな、と歌の歌詞のように、ふと思ったりもする。  

文・写真・イラスト ピアリング編集部 ゆう

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